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実家に来ています。
猫のごんちゃんとクララともいちゃいちゃしました。
ごんちゃんが、また太っていた・・・
姪の、はっちゃんがかわいすぎて、夜中の12時まで遊んでしまった。
その日は、滑り台みたいな丘をス~~ウっとすべる夢を見たんだけど、はっちゃんのおうちには、
なんと譲ってもらったというアンパンマンの滑り台があって、そのこども用の滑り台を何度も滑らされた。
あの笑顔で、何度も促されたら、やるしかないよねえ。
実家に来ると、いかに東京の自宅が騒音の中にあるかがわかる。
騒音と言っても、音だけではなく、色々な気が集まっているという意味でも。
実家の周りにも、家が沢山あるけれど、やっぱり夜中はしんとしている。
これが、静寂だよなあ~と、耳の奥のほうまでし~~んとしている感じに感動して、
リラックスできた。
そのせいか、今朝はバニヤンツリーという、大きな大きな木の下にいる夢を見た。
一足先に、ハワイ島へ行ってしまった。
ハワイ島に行ったら是非、その下で見上げたいなあと思う。
ではでは、いってきます。
Mieともようやく連絡が密になってきてほっとしています。
Ryoco
追記:小さな阿波踊り祭りが近所であったのだけど、子供たちがあまりにもきらきらしていて、
涙ぐんでしまいました。老化現象かしら?(笑)
でも、本当に子供たちのエネルギーは素晴らしいなあと思う。
ごめんなさい。
9月の終わりだというのに、『真夏の果実』だなんて。
ふと、ハワイ島にはサンディーのCDを持って行って聞きたい!
と思いたち、タワレコへ。
私が買ったアルバム(ベスト)の中に、『真夏の果実』が入っていた。
これは、もちろんサザンの曲。
確か、私は中学生の頃聞いていた。
この曲を聞くと、世界が透明になるようで、
なんだか、せつないほどに恋しくなって
なんだか、魂に来たのか、
泣けたなあ。
サンディーバージョンもとっても素敵。
『なだそうそう』のハワイ語バージョンも入っている。
あとは、やまごんがくれたハナレグミのCDを持って行こう!
一枚くらい、ドライブ用にCD作って行こうかなあ〜
って言っても、明日しか時間がないけど。
一緒に行くMieちゃんは、忙しいようで、連絡がない。
ハワイ島に行く日に、ようやく一息つける感じになりそうだね。
がんばれ〜
先日、やまごんが、「本は何を持ってくの?」
と、楽しげに聞いてきた。
そうなのよね〜〜
と、ずっと考えていた。
私はついつい、毎回同じ本を持って行ったりするから、
今回は、読んだことのない本を持って行きたい。
と思い、ジュンク堂をうろうろ。
あの本屋は、時間のない時に行くと、なんだか損した気になるね。
めったに行かないから、じっくりまわってみたい。
さてさて、
明日しか準備する日がないのに、まだ何も・・・
しかも、明日はちょっと用事もあるんだった。
という事で、
休みを前に、密かに興奮気味なのか、
とても身体が疲れたので、
今日はひとまず寝るとしましょう。
サンディーの音楽は、
愛に溢れていて、とっても幸せ。
実家で、サンディーのフラのDVDをみていたら、
はっちゃんが、凄く真剣に観ていた。
あかちゃんをも、惹き付けるその美しさ。
買ってよかった。
これで、グッとハワイ島行きが近くなった。
島の自然と、風と、植物や動物たち、
そして、人々に出会えるのがとても楽しみだ。
今までの海外旅行の中では一番短い旅行だけど、
途中からは、一人になるって言うのは初だし、
色々な人にお世話になることになるし、
色々な意味で、今までとは違った旅になりそうだ。
よい週末を!
Ryoco
世の中には不思議なことが沢山あるものです。
でも、それをすっかり忘れてしまっていることもあるんだなあ
と、今日いきなり思い出した昔の記憶に驚いた。
最近は、時々こうやって過去の忘れていた一場面を
思い出すことがある。
それも、色々と活字を読んでいるせいだなあと思う。
活字には、古い記憶をを呼び込む力もあるなあ。
私が幼い頃に体験した、どうしても不思議なことは、
思い出しただけで2つある。
ひとつは、今日思い出したのだけど、
私は、幼い頃、何故かとても渋いものにはまっていた時期がある。
それは、タンポポの根っこを掘ってきて、
当時住んでいた社宅のベランダのプランターに
植えて育てるというもの。
たんぽぽは、根を切って、土の中に植えると
芽を出すのです。
初めてそれが成功した後、
とっても感動して、今度は違う種類のタンポポで
やってみよう!と思い立ち、
近所に探しに行った。
そして、忘れもしないことが起きた。
それは、私の住んでいた社宅の建物の、私のうちの
すぐ下の所に咲いていたタンポポの根元を掘っていた時だった。
ずんずん深く掘って行くと、凄いものが眠っていた。
だんごむしみたいな背中の、大きな動物がいるのを
ご存知だろうか?
ちょっと名前が分からないのだけど・・・
もう、まさにそれとしか思えないような巨大な
だんごむしらしきものが寝ていたのだった。
私は、もの凄い恐怖に固まってしまった。
それから、ふっと我に返って、
もうすっかりタンポポのことなんて忘れ、
その気味の悪いものが起きないように、
そうっと土をかけたのだった。
人は、
あまりにも怖いとき、異常におとなしかったりするものかもしれない
私は、確かその後、
恐怖を胸に抱えながら家に帰ったのに
母に話した記憶がない。
そして、どきどきしながら
家にあった図鑑で、その動物を探した。
私は、その動物が載っている近辺のページが
苦手だったから、めくるのが辛かったけど、
確認したら、ますますこの動物だと確信した。
しかし、なぜ日本に??
いたとしても、動物園なのでは?
なぜ、こんな東京の下町にひっそり眠っているのだ??
考えれば考える程謎は深まった。
あれは、何だったのだろう??
あの時も、何度も不思議に思って
何度も図鑑を見て考えたのだけど、
子どものこと、そのうち飽きて、
まあ、そういうこともあるさ〜という
大ざっぱな結論に達して忘れてしまっていた。
あれは、夢ではないと思う。
昼間だったし、はっきり覚えているし。
でも、そうであるなら何故??
あともうひとつは、
UFOだ。
私は、かつて、2回UFOを見た事があるのだけど、
一回は、私は既に中学生か小学校高学年くらいだったと思う。
ぼうっと空を眺めていたら、円盤が見えたので、
目を疑って、母と弟を呼んだ。
そして、3人で見たので、あれは間違いない。
弟とは、一緒においかけもした。
あれは、皆で確認したし、
不思議なこととはそう思っていない。
不思議なのは、やはり東京にいた頃の話で、
やはりその社宅内で起きた。
私は、大好きなさっこちゃんというお友達のおうちに
遊びに行っていた。
よく、お泊まりにも行っていたと思う。
そして、その日もお泊まりしていた。
夜中、私はひとり起きてしまった。
そして、中庭の方のカーテンが何か妙に明るいのに気がついた。
そして、窓の外を見てみたら・・・
巨大な宇宙船(?)がとまっていた。
今でも鮮明に思い出せる。
その時の恐怖とともに。
私の小さい頃は、よく土曜日の昼間に
今思うに、B級映画はかりやっていたチャンネルがあった。
こわ〜いのも結構あって、
学校から帰ってきてテレビをつけて
怖いのに目が離せなかったB級映画が沢山あった。
本当に、怖かったなあ〜〜
宇宙人ものとかもあって、そうとう怖かった!
気がついたら、周りの人がみんな宇宙人だったっていう
映画を観た後は、親ですら疑ってしまって、
頸の後ろに変な装置がないか、そっと確認したこともあった。
泣きそうなくらいどきどきしながら!
というわけで、宇宙人ものにはただならぬ恐怖を持っていたのだけど、
その社宅に出現した、巨大な、きらきらと光っている
宇宙船を見た時は、まさに息をのんだ。
心臓がとまりそうなくらい怖かった。
気づかれたら終わりだ・・・と思い、
我に返ると、誰も(宇宙人とか?)でてこないのを確認して、
そうっとカーテンを閉めて、
友達のいる布団に潜り込んだ。
あれは怖かったなあ。
今となっては、不思議体験ではなくなっている、
似たような体験がもうひとつあって、
それは、サンタクロースだ。
その年のクリスマスは、
なんとしてもサンタクロースが来るまで
そっと起きていて会ってみたいと思っていた。
そんな計画を練っているから、どきどきして
眠たくなる筈もなく、私は寝た振りをした。
やがて、両親も眠りについて、
熟睡しているような寝息が聞こえてきた頃、
私は起き上がって、そっとキッチンへ回り込んで、
窓の外を見た。
しばらく見ていると、
むかいの社宅の軒下に、
まさに、サンタクロースが来ていたのだった。
赤と白のコスチュームに、白い荷物を背負っていた。
私は、声にならない声で感動してしまった。
遂に見てしまった!!ってね。
そして、もうすぐにウチに来るに違いないと思って、
寝た振りをすることにした。
だけど、いつの間にか寝てしまっていたようだった。
朝、気がつくとサンタさんからのプレゼントが置かれていた。
あの時も、サンタさんを見たことは親に言わなかったっけなあ。
私は、そういう不思議な体験を何故か親に言わず胸にしまっていた。
何故だったのだろうなあ。
大人には言ってもわからないだろうと直感で知っていたからかなあ。
今なら、真っ先に言うのだけどね。(笑)
でも、後に、サンタクロースがいないって知った時、
あれは何処かのお家のお父さんだったのだなあと自分の中で
納得したのだった。
でも、いまだにあのUFOだけは
何だったのだろうと思う。
夢でないとしたら、何なのだろう。。。
私は、やっぱり宇宙人なのだろうか。
そうだ。
大人になってからの不思議体験としては、
六本木から乃木坂に行く途中に見た、
ハレー彗星並み(と言っても見たことはないけど)の
もの凄い大きな流れ星みたいなものだ。
あれは凄かった。
次の日に、大学の図書館で各新聞を調べたけれど
どこにもその謎を裏付ける記事は載っていなかった。
そのとき一緒にいたバイトの先輩も見ていたと思いこんでいたのだけど、
後に尋ねたら、私しか見ていなかったらしい。
その空を一緒に見た後、暫く会話がなくなって、
そのあとに、その事に触れず、
今まで体験した不思議話で盛り上がったので、
先輩も見たとばかり思っていたのだけど。。
あの夜は、それがあまりにもきれいで驚いて、
話題にするのすら勿体ない感じだったのだった。
何だったのだろうということは、
小さいことならたくさんありますよね。
小さい頃に海で拾った得体の知れない骨のような
珊瑚のようなものは、河童にしか見えず、
妙な雰囲気が漂っていた。
神聖なもののような気がした。
中学の頃ふと思いたって、理科の先生に持って行ったけど、
動物の骨だろうなあ・・・と言ったきり、
先生にも見当がつかなかった様子だった。
あれは・・・やっぱり河童だったのかしら?
あれは、あまりにも神聖な気がしてどうすることも出来なくて、
暫くウチの神棚に置いてあった。(笑)
確か、その後随分経ってから海に戻したと思うけど。
多分、不思議なことってもっとあったのかも。
みなさんも、そんな不思議な体験があるかしら?
きっと、あるのだろうなあ〜
って、そんな事を考え出したら、
気になってしまって何となく目が冴えちゃったので
こうしてブログを書いています。
さて。
お肌に悪いから寝るとします!
もうすぐでハワイ島だ!
だけど、全く荷造りしていない・・・
どうも、キラウエア火山に行く最初の数日は、
お天気が悪いらしい。ぐすん。
お天気が、いいといいなあ〜
ではでは、
おやすみなさいませ。
Love,
Ryoco
追記;
今日は、なんとお財布を忘れて出掛けてしまったのに、
パンを買うことが出来た。
パスモって、素晴らしい・・・
と、現代のアイテムの素晴らしさを実感した一日でした。
東京は、9月も終わろうとしているのに、蒸し暑い夜が続いています。
みなさん、お元気ですか?
昨夜の、NHK『プロフェッショナル〜』を観たのですが、長沼毅さん・・・素敵すぎた。
好きなことを、苦しみながらもきらきらと喜びを携え追い求めている人が素敵じゃないわけがないのだけど、それにしても、素敵だった・・・
さて。
ここ半年程、私の夢によく登場してくる人がいる。
それは、私が初めておつき合いした人(中学生の頃)で、それはそれは、当時の私なりの情熱はあったとは言え、純粋な子どもであったなりの手探りのつきあいだったと思う。
そんでもって、その後、Makiの恋人になった人である。
そこのとがきっかけで、私は一時期、やまごんとか、小学校の頃からの友人たちからも遠ざかるを得ず、どことなく仲間はずれになったようで、人知れず苦しいなあと思っていても、誰にも通じなくて、とても暗く哀しい思いをしたことがある。
そんな私たちであったけれど、大学生になって、突然、Makiからはがきが届いた。
これをきっかけに、私たちの愛は、す〜っと戻ってきた。私とMakiは、本当はとてもお互いが大好きだったのだと思う。
楽しい思い出ばかりだけれど、もともとは、反発しあうことが多かった私たちであった。
まだ仲も良くなかった小学生の頃、私は何故か学級委員とかそういうのに選ばれがちだったのだけど、Makiは私が嫌いだったようで、あからさまに色々な人にその事を触れ回っていた。
私自身もその事は知っていて、ビシビシと圧迫感を感じていたのだけど、何がきっかけだったか全く思い出せないけれど、その後、何故か私たちは仲良くなる。(笑)
本当に、憎しみと愛は同じかもしれないと思う。
大学生の頃、一瞬だけ住んでいた相模原のアパートに、Makiとその恋人が遊びにきた。そして、なんと、話が盛り上がり過ぎて、結局泊まって行った。
あの頃、そんな自由があったなあと懐かしく思う。私たちの心も、きっかけさえあれば、柔軟にお互いの溝を埋める自由さがあった。
Makiが亡くなる数ヶ月前、もうその恋人とはつき合っていなかったけれど、彼女はとても彼のことを心配していた。「涼子と彼はよく似ている所があると思う。私は、彼の話を十分聞いてあげられないけど、涼子なら出来ると思うから、助けになってあげてね」と言われたのだけれど、もちろん私は彼の連絡先を知らなかったのでそのままになっていた。
結局、彼女が亡くなってから再会することになった。その時に、私もどうしていいか分からないくらいの苦しみをぶつけられたけれど、聞く以外は、どうすることも出来ずとても心配だった。
そんな彼も、今は立派な男になって、自分の家族と暮らしていることでしょう。
だから、何にも心配はいらない筈なのだけど、もしかしたら、この夢はMakiが見せている夢なのかしら?ともちょっと思ったりもしている。
人の縁って、不思議なものです。本人の想いを、簡単に飛び越え、不思議に絡まって行くもの。
何故、愛し合う二人が、別れなくてはいけなかったのか。
昔は、それがどうしてもわからなかったけど、今は分かる。それを言葉にするのは難しいけれど。
とにかく、何故か彼が夢に出てくる率は高い。潜在意識の中で、私の責任感がそうさせているのかしら。
今日は、ひとつ面白いことがあった。
朝、表参道の駅で友人にそっくりな人を見て、思わず本人かと思ってしまったのだけど、顔はまったく別人だった。でも、それ以外は、かなり完璧に近いくらい似ていた。
服とか、服の重ね方、色の選び方、姿勢、身長、髪型・・・似ていた。
そしてなんと!
夕方、その友人(本人)に声をかけられて、あんぐり。
その時は、すっかり朝のことを忘れていたのだけど、「何か変だなあ」と、何か足りない気分だった。
表参道に着いた時に「あ!朝に見かけたあのそっくりさんのせいで、一度会った気になっているからだ」と、妙に納得してしまった。
きっと、あなたは、今日Kちゃんに会うでしょうって言う、掲示がなされていたのでしょう!
ランチの約束をして、別れる。
彼女は、今は帰ると家族みたいな人(結婚する予定の人)がいる。いいなあ〜
私も、ぬくもりが欲しい・・・・・・(笑)
そんな気持ちからだから不純だけれど、猫が飼いたい。
あ、それで思い出したけど、汐留の、いかにも今っていう感じの高層ビルがひしめいているあたり。高いところにある気持ちのいい遊歩道に、猫の親子がいてびっくりした。子どもが沢山いてびっくり!
大所帯である。
なんだか、あの場所に、一番不釣り合いな光景に見えた。
彼らは、一体何を食べて生きているのだろう・・・
猫と家族と言えば、
実家では、完全に動物と、我が弟の名前が入れ替わってしまうことがしばしばあった。
それは、大抵、注意したり、呼んだりするときなんだけど、例えば、猫のゴンをしかるときに、
母「タク!(弟) あ、タク! あれ、マロン(犬)! クララ!(母猫)」
・・・と、ことごとくゴンの名前が出てこないことがよくあった。言い換えても間違っている。
そして、凄いのが、
逆に、弟を呼ぶ時に
母「ゴン!」
って言ってしまった瞬間を見た時は、言った本人すら可笑しくて不思議でしょうがなかったようだ。あまりに見事に間違えるから、ころころと笑っちゃう程だった。
何故間違えるのだろう??
ああ、かわいい動物たちの事を思い出していたら
ちょっとキュンとなってしまった。
みなさんも、
あたたかくよい夜を!(十分暑いよって言われそうだけど)
Ryoco
月曜日の夜、特に観るつもりはなかったのに、BS2でやっていた『グラディエーター』を観た。
洋画で、ほんの少しだけ英語のヒヤリングでもしようかと思ってチャンネルをまわしたのだけど・・・
私、基本的にえぐい映像はだめで、日本のホラーは結構平気だけど、内臓が出てきたりするのは本当にダメ!!そういうタイプのホラーもダメ。(『ジョーズ』や『エイリアン』なども)
戦争ものでも、そう言う場面があるのはダメ。
もっと言うと、自分のからだにメスを入れるのも、内視鏡カメラもダメ!
何故か分からないけど、血というか、切ったりして中身が見えたり、肉体が切り離されたりしてしまうのがダメなのだ。
内臓に弱い。本気で弱い。
私の、胃カメラなんて、本当に命がけだった。
あのときの、看護士さんとお医者さんの前で見せた、みっともなさを凌駕する日が、今後来ない事を切に祈っている。
(だって、診察してくれた先生は、私が必死に「全身麻酔できますか!!??」って聞いたら、もちろんって言ってくれたから、その気でのぞんだのに、当日の看護士さんが「からだに悪いから、やめなさい」「みんな部分麻酔でやってる。大丈夫だから」「私がついているから」と、頑なに全身麻酔を反対するから、意識があったのが運のつきだった・・でも、それでよかったのだと思いたい。
私は、この看護士さんがいなければ生きて行けない!と言うくらい、あの時間は大粒の涙を流しながら看護婦さんにしがみついていた。本当に怖かった。恐ろしかった。情けないですねえ。頭では分かってるけど、本能的にどうしても内臓をいじられるのはだめなのです。リアルに感じ過ぎちゃうのがいけないのだろうけれど。。)
昔よりは、そう言う事に少しは怖いと思わなくなってきたかなあと(少なくとも様々な形で見る機会が数回はあるわけだし)感じていたけれど、やっぱりダメなんだ〜っていうのが、『グラディエーター』で証明された。
あまりにも、人が殺されすぎるのだ。
日本もそうだけど、昔の人間界では、公の場所で人を殺したりすることがあったのだろうけれど、小さい頃からそういう歴史なり映画なりテレビなどを見る度に、今の時代に生まれてよかったと思ったものだ。そう言えば、『ベルサイユの薔薇』でも思ったっけなあ。
ラッセル・クロウ扮するマキシマスが剣を振るうシーンは、本当に命がけで、ちょっとこれはきつい・・・と思いつつ、ホアキン・フェニックス扮するコモドゥス皇子の悪くて何処までも哀しすぎる演技に、吸い寄せられるように、テレビにくぎ付けになってしまった。
私は、夢中になると全身全霊で観てしまうので、映画が長いと体力がなくなってきてしまう。
特に、こういう殺しが入ってくると、きつい。ぐさぐさと自分も刺されて叩かれている感じになってしまう。
ちょっと長いなこの映画・・・と思い始めた頃、急にお腹に激痛が走った。
私は、大人になってからは、あまりお腹を壊さないほうで、特にここ最近はそうだったから、嫌な汗がいっぱいでてきた。
痛みの程度は、「神様、おれ、酒も女もやめます!!」と神様に本気ですがり、のたうちまわる程ではなかったのだけど、これ以上観ていたら、お腹が悪化するかもしれない・・・と思いつつも、チャンネルをまわす事はできなかった。
結局、お腹を抑えながら、こっちも必死になって闘いながら観た、『グラディエーター』。
あまりにも、コモドゥスの最期がいたたまれなかった。お姉さん、もう少し愛してあげてほしかった。せめて、遺体に触ってあげるとか。もう、そういう事は入り込む余地がない程に、深い深い溝が出来てしまったのだろうなあ。
何で、全く今まで観ようと思った事のなかったこの映画をこんなに必死に観ることになったのだ。
謎はつきないけど、このお腹の痛みは、絶対に、あの映画の様々な残虐シーンを観過ぎたせいだと思う。
その後、ちゃんと寝たのだけど、夢まで何となくあの映画の世界を引きずっていた気がする。
残虐なシーンはきつかったけど、ラッセル・クロウが将軍っぷりを発揮するシーンは、めちゃくちゃ凄い状況に挑んでいく、死を背にした、失うものは何もないという迫力には、本気で熱くなってしまった。
ついつい、無理なのに、将軍について行くぜ!っていう闘志が生まれてしまいました。
・・・単純だ。
そんな、人間の底にある本能的なものが、彼の演技によって引き出された気がした。やっぱり、主演男優賞をとっただけの演技だったと思う。
でも、一番印象的だったのは、ラッセル・クロウの目だったなあ。
どこまでも深い薄浅葱色というか。泉みたいで、美しかった。
ああでも。
お腹の調子は、今日もまだあまりよろしくない。
なんとなく、痛い。。
大切なお腹が調子悪いと、ハワイ島行きが、いまいち盛り上がらないのが辛いところだ。(笑)
せっかく、連休でちょっとはデトックス出来た感があったのになあ!
以上のことを、勝手に、一時的な病、『グラディエーター』痛と名付けてみました。
私は、そんな極度の内臓恐怖症だけど、
人生で2、3回・・・それ以上かな?それはそれは、凄い内臓が主役の夢を見た事がある。
映画や実際の内視鏡程の、実質的な怖さはないのだけど、現実では絶対にありえない程の場面がくり広けられ、夢とは思えない程もの凄くリアルで、夢から覚めた時に、真剣に「夢でよかった!!!」って思うの。
殺人とかそういう、憎しみとかは介在していない夢だから、心情的には乱れてない気がするけど、何しろ、もの凄く鮮明なカラーな夢なのだ!
やっぱり、こわい〜〜!!
・・・
こんな日記になってしまったのも、『グラディエーター』痛(という病)だと思ってお許しください。
そうだ。
ホアキン・フェニックスは、本当に素晴らしい俳優になったんですね。
まだ子どもだった頃の、『SpaceCamp 』の頃が懐かしいなあ、としみじみしてしまった。
私は、リバーの大ファンで、今でもとても大好きなので、もういないことを思うと、心がとても傷むし、かつて、訃報を聞いた日の、教室の風景も覚えている程だ。私は窓際の席で、窓からは、太陽がやわらかく降り注いでいた。
本当に、ショックだった。
もし、彼が生きていたら、どんな作品に出ていただろうかと思ってしまうのは、ナンセンスだけど、時々思い出すと、寂しいなあと思いつつ、そんな事を考えてしまいます。
特に、キアヌとか、ジョニーとかを観ると思い出す。
ホアキンには、リバーとはまた違った、本当にぞっとするほどの素晴らしいきらめきがある。今後が楽しみだなあ。歳も近いみたいだし。
昨夜は、三日月がとてもきれいだった。
光の周りに、ぼうと白い膜が出ているようで。
写真にはうまく撮れなかったけど。
旅行に行く前に、岡本太郎に会いに行こう。
と思っていて、まだ蝉がみんみん鳴いている生田緑地を抜け、
岡本太郎美術館へ行ってきた。
今やっている常設展もとても素晴らしかった。
印刷では絶対に表現出来ない色がそこにあって、
その色に私は吸い込まれそうになりながら絵の前に立ち尽くす。
『樹人』という題名の絵のピンクがとても印象的だった。
『哄笑』の前では、涙が出そうだった。
絵から発せられる、線と色のパワーが魂の奥までびしびしと伝わってきた。
前にも観たけど、岡本太郎の映像をじっくりと観た。
やはり岡本太郎は、私の中に生きているなあと再確認。
付け加えるなら、
みんなの中にも、生きている。
それが、岡本太郎。
企画展も良かったけど、ゆっくり観る時間がなかった。
アマゾンの映像が素晴らしくって、ゆっくり観たかったなあ。
あの部屋にいるだけで、アマゾンの風を感じられそうだった。
そんなわけで、あっという間に、閉館時間になってしまった。
閉館時間ギリギリに、『対談集 岡本太郎 発言!』を購入。
そう言えば、あまり対談集を読んでいなかったので、とても面白い。
変わっている所では、ムツゴロウさんとの対話や、ユーミンとの対話が面白かった。
(ムツゴロウさんはやっぱり超越してる素晴らしさで、ついついにやりと笑ってしまった)
パタゴニアのグリーンのコーデュロイパンツをはいていたら、
「きょうは、○○○ちゃん(私の本名)、みどりのひ?」
と突っ込まれた。
自分がみどりだからか、同じ発色のみどりいろを身に纏った人を、朝と夕方の2回見た。
二人とも、スカートで、お洒落さんで感じが似ていたけれど、見た場所はそれぞれバラバラ。
これは、割と毎日のようにそうなんだけど、私が歩く先に、同じ調子のテキスタイルがやたらと登場するって事がある。水玉ならば、その日一日は、水玉ばっかり出会う。それも、同じような水玉ばかり。
まただ!まただ!まただ!
ってな感じで、一瞬、流行ってるの?!って思うけど、次の日には、ぱったり見ないからもちろん流行ではない。
不思議でしょうがない。
さて。
夜の代々木公園は、公園の外を歩いているだけで、もの凄く木々のパワーを感じる。
2日続けて歩いてしまった。
歩きながら、心の中で公園の木々に話しかける。
木々は、静かに呼応してくれているような気がする。
暗闇は、木々の存在を、明るい時よりもはっきりと感じる事が出来る。
ひとりきりで、自然と向き合うとき、木々を通して、宇宙を感じる事が出来る。
急に、こうしてここに生きてる事が、不思議でたまらない気持ちになる。
と、同時に、この星にこうしていることは、とても希有なんだと感じる。
こういう感覚は、
子供の頃にも感じていた。
ひとりきりで、草花に囲まれながら、夢中になって遊んでいたとき、
感じる全ての生命の輪郭を、小さい身体でとらえていた。
風や、土の匂い、草花の匂い、人知れず働き続ける虫たち、
広がる空、太陽の傾斜
その全てが嬉しくて、むくむくと広がる素晴らしい世界に歓喜した。
植物は、
いつだって、ここにあって
光合成をしながら
私を助けてくれている。
人類の歴史は、
この地球の営みに比べたら
なんて短いのだろう
それなのに、
地球をいじくりまわして、
地球の生命を縮めている
地球は、折り返し地点に入ったと言う。
いったい、人類は
いつまで存在していられるのだろうか。
私たちが思っているよりずっと早く
私たちは消滅してしまうとも言われている。
それは、今生きている人が全ていなくなった後の
話かもしれないから、
本当はもっと真剣に取り組まなければいけない問題だけど、
なかなか先に進まないでいるのかもしれない。
危機感は、それが近くに来て初めてひしひしと感じるものなのだろう。
このままでいくと、
人類の消滅は、決して遠い未来ではないかもしれない。
人類は、既に晩年を迎えているのかもしれない。
もしそうだとしたら、
人類とは、なんてはかないのでしょう。
ふと、幼い頃、面白い時代に生まれて来れたなあと
しみじみ思った事があるのを思い出した。
色々な意味でわくわくするんだけど、何となく色々なせつなさもあって。
それは、晩年にいると、感覚で感じていたからだったのだろうか。
人類が滅びても、きっと木々は、もう少し長く
この地球を見つめ続ける事でしょう。
そしていずれ、木々が体験する、生命の終わりもあるのだなあ。
地球は、ビッグバンを反対に辿り、
やがて塵となる。
みどりたちと接していると
無常をとても感じる。
そこには、言葉もなければ、計算もなく、
ただただ、様々な因の結果である、生命の営みが
脈々と続けられているだけだ。
人間は、脳みそと心が発達して、
欲望の赴くままに、
足早に、地球の流れを変えて行った
その歴史の浅さに、
改めて驚かされる。
人間って、本当に凄いと思うし、
なんて愚かだなあとも思う。
私たちは、何をそんなに急いでいるのでしょうね。
これからは、ある欲望をどんどん捨てて行かなければ
人類の消滅は決して遠い話じゃないのだ。
出来る限りのことを生きている間にして行こう。
精一杯。
そのパワーをみどりたちにもらっている。
そうだ。
朝と昼に、
アゲハチョウが飛んでいた。
都会のなかで、ゆらゆらと。
近くには、とても美しい花が咲いていた。
よい週末を!
Ryoco
スイーツは、何だかんだ言っても、やっぱり凄いと思う。
そして、パティシエという職業は、相当素晴らしい職業だと思う。
と、
こんな風に言うようになるなんて、
私もすっかり甘い物好きになっている証拠でしょう。
かつて、私はあまり甘いものを自分で買ってまで食べることはしなかった。
執着も衝動も殆どなかった。
とは言え、幼い頃の記憶で、隠れて角砂糖を食べるのが、
凄く好きだったと言う過去もあるのだけれど。(笑)
多分、母があまり甘いものが好きじゃなかったんじゃないかなあと思う。
だから、うちには甘いお菓子どころか、
スーパーで売っているようなお菓子は、あまり登場しなかったように記憶している。
お菓子の新作について、学校で話題になってもついていけなくて、
ちょっと寂しい気分がしたものです。
それでも、買って買って〜っていうおねだりも大してしなかったようなきがする。
ケーキは、誕生日とクリスマスに食べるものだったけれど、
時々、父がトップスのチョコレートケーキをお土産に買ってきてくれる事があった。
これが、美味しくてね〜
思いがけないって言う嬉しさも手伝って、相当に幸せな気持ちで食べていたと思う。
マクロビオティックを勉強した人なら、
砂糖やチョコレートが何故良くないのかということについては、
納得のいく説明を読んで、なるほどと思ったことだと思う。
だけど、納得した事と、チョコや砂糖を人生から消し去ってしまうというのは
別問題だ。少なくとも、私はそう思う。
もちろん、マクロビオティックには、他のもので代用したスイーツのレシピがある。
それは、実践しているのは素晴らしい事だと思うし、それで幸せならそれは最高だろうなあと思う。
しかーし!
人生の様々な局面には、って、そんな大げさな話じゃないけど、
私たちは、生きている間には、様々な魅力的なスイーツに出会ってしまうものである。
砂糖やチョコが、引き起こすだろう病気や、精神面での悪影響もあるだろうけれど、
反対に、スイーツがもたらしてくれた、喜びや笑顔や感動だってある筈だ。
それによって、仕事がはかどったとか、原動力の一部となった人だっているだろう。
物事は、なんでも両極を見つめなければいけないのだ。
姪のはっちゃんが、初めて食べるものを口にする時、
私は、わくわくしながらその様子を見ていた。
だって、人生で初めて食べるものって、大人になったら高級品でない限り、
そうそうないでしょう。
少し物が分かってきた1歳ころ、初めて食べるものを口に入れ、
もごもごと、口の中で確かめている。
そこでどういう判断がなされているのか全く分からないけど、
もごもごのあとに、美味しかったら、
必ず、これ以上ないって言う程の笑顔で喜ぶのだ。
あの、食べた時の感動って、すっごくいいなあって思うんだ。
何だか、生きるってこういう事だったよなあって、
一番大切な部分を見たようで嬉しかった。
美味しいスイーツは、
そんな生まれて初めて、美味しいものを食べた時のような喜びを
提供してくれているような気がしてならない。
たしかに、食べ過ぎは良くないけど、それだけの話じゃないだろうか。
スイーツは、
毒であり、
極上の薬だなあって思う。
遥か昔から、
そのようにあって、
これから先も、
ありつづけるだろうなと思う。
追伸:
十字式に行ってきた。
マッサージの時とか、あらゆる癒しの治療の時もそうなんだけど、
私はそうとう凝り固まっているらしい。
反応を見ると、よく分かる。
でも、素晴らしく全力で歪みを治してくれたので、
頭痛はなくなって、目がよく見えるようになった。
肩こりは、暫く通わないと、長年培ってきた
色々な凝りはほぐせないだろうと、言われなくても本人が一番良く知っている。
昔、ある施術師さんに、頭蓋骨がなかなか開かないと言われた。
この強靭な何かは何なのだろうと、てこずっていらっしゃった。
ヨガや瞑想など、あらゆる身体を緩める方法があるけれど、
それらを踏まえた上で、整体ってやっぱり深いなあと思った今日この頃。
呼吸、瞑想、はどの考え方でもやっぱり必要で、それはそうだろうと
凄く納得している。
最近、
自分の中で、水と植物にぷるんと包まれているイメージがあって、
今でも感じているけれど、
それからは、水に関する本に出会う事が凄く多い。
今日買った整体の本も、よく読んでみると、
水をイメージしての整体方法が紹介されている。
赤ちゃんの頃の、あのゆるゆるさ加減、
気持ちのいい方へ身体を動かす自由さ。
美味しいものを食べた時の喜び、
そういう、
あたりまえのことを
しっかり見つめて行きたい
そんな32歳です。
そういうことをしっかり見つめて行くと、
自分の女性の部分がむくっと立ち上がってくる。
わたしも、いつかは子供を産んで
育てたいなあ。
やっぱり女性だから、そう思うのかしらん。
みなさん。
私程ではないにしても、
現代に生きる人の身体は、実は色々な意味で間違ったつき合い方が染み付いて、
聞こえない悲鳴をあげているのじゃないかなあと思う。
身体が便利な生活に慣れてしまって、
本来使うべき部分を使わなくなり、退化しているのは、
共通の問題だろうと感じられる。
人間の身体は、本来一日中同じ姿勢をするようにはなっていない筈。
頭蓋骨とか骨盤を、意識的にゆるめて
身体と向き合う事って、凄く大切だと思うのです。
身体の不調を感じて、始めて向き合う気になるものだろうけど、
本当なら、幼い頃からの習慣として母親がお手本になるといいんだろうなあと思う。
とにかく、
みなさん、身体は大切な鎧です。
よく見つめて、偏ったバランスならば、
フラットにしてあげましょ!
そんでもって、美味しいスイーツは、
我慢せず口にして、にっこりしましょ。
(但し、スイーツは特別な食べ物だと思っていたほうがいいなあと思う。あたりまえだけど、手に入るからって、沢山食べるのは絶対によくないのです。スイーツもバランスが重要だ)
よい夜を!
Ryoco