私がまだ大学生の頃、確か何かの本を通してその存在を知ったダライ・ラマ法王。それから、私はチベット仏教についての本を何冊か購入して読んでいました。
確かにその時期にも、それらの本に書かれた事に感動したと思うしそこで得た素晴らしい教えについて実践していきたいなあと思っていたけれど、その解釈はまだとても浅かったように思うし、動機もそれほど強くはなかったし、実践するには当時の私は忙しすぎたようです。
しかし、それはまだ本当の意味での苦の経験が浅かったことに起因しているようにも思えます。そして今、再びその時に購入した書物を読みなおしています。こころに馴染むまで、何度も何度も。
教えのレヴェルによっては、とても難しい部分もあります。だけど、私は幸いにも幼い頃から仏教のよい教えの近くにいました。そういうことに少なからず馴
染みがあった縁や、私が小さい頃から童話や冒険ものなどのお話しを通して見ようとしていた“向こう側にある何か”は何だろうと追い求める気持ちを持ち続け
ていたこと、あらゆる苦しみや喜びの経験をさせていただいたことは、全て、今こうして再び学ぼうと思わせた動機に繋がっているのだと思えるし、再び出会う
事が出来たのだと思います。
そして、あらゆる仏教の正しい教えを網羅しているチベット仏教に触れるに連れ、私が何故生まれてきたのかが理解出来るようになりました。私が、見たかっ
た事は、真に理解できるまではまだまだ道のりは長いけど、まさにその教えの中に書かれてある。そして、何故日本に生まれたのかっていうことや、幼いながら
に感じていた、とても恵まれているにもかかわらず説明が出来ない苦しみを抱えていたのか、何故情熱を燃やしてきたのか、そして何故様々な経験を通して沸き
起こる色々な感情と戦ってきたのか、そういった事も全て理論的に説明出来てしまうのが仏教であると思いました。
そして、その教えに慣れ親しんで行くに連れ、自分に沸き起こる感情を客観的に見つめ、観察し分析できる力が、少しだけではあるけれどついてきたように思います。
怒りや不快な気持ちが生じた時でも、喜びを感じたときでも、一瞬はその感情に支配されますが、そのあとに観察する癖がつくようになりました。
こういうことは、よい動機によって行う事がもちろん大切な事で、ただ闇雲にやっても混乱するだけなんですよね。やっぱり、疲れているとき
などは、そのよい動機が見えづらくなってしまって混乱してしまう場合があります。そんな時は、無理をせずしっかり休んで、それから、何度も本を開いて、教
えに触れるように心掛けています。
何故、こんな外から見たら個人的に思えるような心の変化についてブログに書くのか、その動機について少しお話しすると、こういった私の個人的に見える心の成長は、全てみなさんに依ってもたらされた事だと思うからです。
だから、私が、必要だと感じた素晴らしい教えは、きっとあなたの苦しみや求めている幸せにとっても有効に違いない。そう思っています。
ブログでどこまで、感じた事を伝えていけるかはわかりませんが、これから少しずつでも、そういった事を書いて行けたらなあと思います。それが、少しでも誰かの心のお役に立てたらという新たな気持ちで、このブログを続けさせていただこうと思っている今日この頃です。
もちろん、今までのようなささやかな日常についても、書いていこうと思っています!
チベット仏教について、興味を持たれてまだ一度も触れた事がないということでしたら、やさしい言葉で大切な事を説かれている、ダライ・ラマ法王の著書を読まれるといいでしょう。
仏教という宗教が大切なのではなくって、他者を思いやる心をもつという事が、考える力を持って生まれた人間として一番大切な事なのだと思
うし、それが全ての宗教に共通している大切な事なのだと思います。その中でも、チベット仏教が何故素晴らしいかというのは、本を読んでいただくとよく分か
ると思います。是非。
その他にも、やさしい言葉で語られた素晴らしい本はたくさんあるので、機会があれば少しずつ紹介していきたいと思っています。
人の心に煩悩を生じさせる原因には、その人が生まれながらにして持つ無知、そして間違った学びからくる無知があるそうです。私自身についても例外なくその無知である「無明」を持ち合わせています。
特に、私が懺悔するべき部分は、「我」が強いところだと思います。それをちゃんと断つ機会を持たないまま、あるいは、機会があったのに怠惰だったため
に、その機会を逃してしまい、長い間育ててきてしまったように思います。幼ければ幼いときほどその「自我」は強かったように思い出されます。
そして、それこそがあらゆる苦の元だったように思うのです。
仏教では、「無自性」「無自我」を説いていて、それは「空性」を理解する事に繋がっていくのですが、この「無自性」について真に理解するまではまだ時間
がかかりそうです。頭で理解したつもりでも、やはりそのことを普段の生活において、実践して行くとなると難しいもので、不快な場面に遭遇すると、一瞬に
して教えが飛んでしまって分からなくなる時があります。
これは、実際に、目に見えることなどの物質的側面に捕われてしまっている証拠だと思います。
「我」が強く、その意識に慣れ親しんできた期間が長いため、本来備わっている筈のきれいな心(仏性)で理解出来るはずの「無自性」や「空性」について、
馴染むのが難しく感じてしまうのだと思います。これは、きっと私だけに限らず、今生に生きる多くの人たちについても言えるのではないでしょうか。
もし、それを理解できていたら苦など感じる事はないし、自ら苦を招くような行動をとる事もないのだと思います。そして、その苦を招くような行いについて多くの人は無自覚で、そのことに気づかない事が無知であるということなんですね。怒りなどの不快だと感じる事も、必要以上の心地よさも、全て無明からくる執着心などのあらゆる煩悩からきているのだそうです。
そんな感情って毎日の生活に普通に存在していますよね。
「私が〜した」「私は〜していない」「私の友達」などという、あたかも「私」が自発的に発生しているという認識からきている「自我」をなくすのは、容易い事ではないでしょう。
だけど、もし少しでも、私が感じたようにそんなことが苦の元なのだと感じる事ができたなら、こころの訓練を実践してみてください。基本は、他者への思いやりの心を持つことだと思います。
そして、こころの訓練をして、ありのままを受け止められる強い心が持てたら、そこで初めて、何の執着心を持たず平等に他者の幸せを祈る事ができるのではないでしょうか。そして、それが生きるという事だと思います。
自分が幸せになりたいから、自分の苦を取り除きたいからこころの訓練をするのではないという事が大切で、心から他者の幸せを思えるようにこころの訓練を積むという、「よい動機」を持つことが大切だとダライ・ラマ法王はおっしゃっていました。本当に、そうですね。
すっかり、長くなってしまいましたね!
最後に、ダライ・ラマ法王のおっしゃっていた、とても素晴らしいと感じた言葉をどうぞ。
この言葉を心に覚えておくだけでも、あなたの幸せになるだろうという想いを込めて。
息を吸うときに他人の苦も吸いこみ、
息を吐くときに他人に幸福を与えていると観想するのです。 (ダライ・ラマ十四世)
この言葉は、以下の詩頌に対する言葉でした。
要約すれば、直接的にであれ間接的にであれ
すべての母[なる衆生]に幸せと益をささげることができますように
すべての母[なる衆生]の苦も障害も
ひそかに私が引き受けられますように (ランリ・リンパによる『心を訓練するための八つの詩頌:七』)
では、新しい年の初めに…
あなたが健康で愛と慈悲の心があふれる毎日でありますように。
そして、楽観的な心と、ユーモアを忘れずに。
Love & Mercy
& Humour
Ryoco