祈りは、ただただ無心になって捧げていると、思わぬ喜びを得られることがある。
今日は、それを感じる事の出来た日でした。
私は、好きな人が好きな人を好きになってしまう。
気がついたら、そうやって人と繋がっていたという事も少なくない。
それは、極端な話、例えば我が敵を、愛する人が心から愛していた場合、私も同じように、もしかしたらそれ以上愛してしまうということ。
それで、手放してしまうものはたくさんあるだろう。愛する人さえ失うかも知れない。
だけど、そうやって手放した瞬間に得るものは大きい。
心ひとつで、敵となるかもしれないその存在は、最高に素敵な存在なのだと私は思うんです。
さて。
私は、ひとつの敵と寄り添った。その敵というのは、人に向けられているようだけど、自分の中にある敵だ。
その敵は、私をとても苦しめた。
だけど、毎日毎日その敵と向き合い、愛を送り祈り続けていたら、ふといつになく軽い心で朝を迎えられ、ふとその敵と目と目が合って、にっこり笑って心を通いあわせることが出来た。
なんて、嬉しい出来事だったのだろうと思う。
その瞬間、祈りが、導いてくれたと感じずにはいられなかった。
それは、とてもささやかな瞬間だったのだけれど、私にとっては大きかった。
その間にある、とても繊細な問題は、もうどうでもいいことのように思えた。
空には、青空が広がり、既に敵ではないその存在がとても素敵に感じられ、とても嬉しかった。
そんな日の朝、『青空が広がっているだけでも、ごきげん!』という言葉が耳に届いたけれど、本当にその言葉のような一日だった。
そうそう。
本日の、会社のトイレでの出来事。
昨日のバレンタインデーで、自分の恋に完全に参っている友の姿と出会った。
彼女は、自分はストーカーすれすれだと言って、自分を責めていたけれど、好きな人に想いを伝えたいと真剣になっている行為とか、ちょっとした勇気すらも「コワーイ」とか、そういう目で見てしまう世の中は何だか寂しいと思う。
緊張して、寒さなんか忘れてしまうほどで、ドキドキしながら好きな人を想う。勇気を出して「好きです」ってチョコレートをあげたっていいじゃないのって思う。だから、私は彼女の情熱を応援した。
安易に寄り添えないからこそ、素晴らしいのだって思う。
さらには、寄り添えなくたってそれでいいじゃないって思う。片想いだからこそ見えることってたくさんある。その想いこそが素晴らしいじゃないって思う。だから、何度も励ました。
そしたら、いい笑顔で「片想いの時の気持ちが一番いいよね」って元気になっていた。
そうこなくっちゃ。
さて。
今日は、帰ってからふとつけたTVの中で、とても微笑ましい動物の友達関係を紹介していました。
普通に考えたらとてもあり得ない状況で、違う種類の動物同士が愛の関係を築き、穏やかな時間を共にしていた。
私も、近所で、普通に考えたら敵同士のカラスと猫が、仲睦まじく遊んでいるのを目撃して、目をパチパチしてしまった事がある。
今日の番組でも、偶然カラスと子猫が仲良くなった話をやっていたけれど、様々な感動的な関係の中でも凄いなあと思ったのが、群れの仲間が死んでしまって
孤独になったメスライオンが、本来は狩りをして食料にしていたはずの動物(シカだったかな?)と親子のように寄り添って生きていたことだった。その草食動
物も、群れからはぐれて孤独だったに違いない。
孤独感というのは、人間も動物も同じなんだなあと思った。
生きとし生けるものは、孤独だからこそ寄り添うのですね。
孤独を知ることが出来ることはこの上ない幸せなのだと思います。孤独を知ったからこそ、敵とか味方とか、自分とか他人とか、そういうものを越えて(捨てて)寄り添えるのだから。
最終的な自然の愛の形は、全てへ注がれるものだと思うけど、まずは身近な人と寄り添えたらいいですね。
できれば、心の中だけでいいから、その人を通して全ての人へ愛の心を開放出来たらいいね。
身近な愛する人と、なかなか寄り添えなくたって、心の中で寄り添えばいい。
それは、どこまでも自由なのだから。
そして、まず心の中で寄り添うことが第一歩で、その心を忘れてはいけないと思うの。
寄り添う第一歩は、イマジネーション。
さらに、祈ってもいい。
ただただ、純粋に。ひたすらに。
きっと、ひとつずつ手応えを感じることが出来るはず。
ひとつごきげんになり、またひとつごきげんになるうちに、きっとどんどん心が膨らんでいくんだろうな。
きっと、それは素敵なことだ。
全てに感謝。
心に情熱を。
LOVE & MERCY
& HUMOUR
Ryoco
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