ようやく、リリーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を読み終えた。
ああ、苦しかったなあ。
私は、色々経験して行くにつれ、物語を読むのが苦手になってきている。もちろん、それでも小説は読んだりしているけど、かなりのっているときじゃないと読めない。
それが、自伝とかそういう類いの本だと尚更である。
逆に、実用書とかエッセイとか、紀行とか哲学書とかそう言った類いの本はどんなに分厚くても読み進めやすい。この前の、中平卓馬さんの本なんて、分厚いし字もとても小さいのに、凄く集中して読んだら半分読むのもあっという間な気がした。
今年の始めは、かなりの勢いでチベット仏教やダライ・ラマ法王に関する書籍を読んだし、岡本太朗さんの本もそうだ。
小説は、時に強烈に人生の助けになる。
私が強烈に支えられていた時期は、高校生〜大学生の頃だったと思う。
そこに、語らいがあるから、溢れる感情のぶつかり合いがあるから、読むのかも知れない。本当に、物語は友達だと思えた。
世間から孤立して孤独に思えた時、同じ感性に出会えると、感動して励みになった。
でも、いつしか、自分の経験が、どんな小説をも越えてしまったと感じた訳じゃないけど、読めなくなったって言う事は、そういう風に感じたからかも知れない。
小説の必要性すらないような気がして仕方が無かった。
あんなに本が大好きだったのに。私の心は壊れてしまったのだと思った。
実家には、そんな時期に手にした読みかけの自伝や伝記や小説が沢山ある。
それでも、私は“ものがたり”が好きだ。
その形は何だっていい。詩でも、小説でも、絵本でも、絵でも、映画でも、音楽でも、舞台でも、何でも。ただ、その中で、私が表現方法として選ぶならば、やはり言葉なのかなあと思う。
絵が描けたら、音楽ができたら、とか思うけど、やっぱり物心ついたときから自分の表現方法として言葉を選んで来た気がします。
正直なところ、何故、物語なんだろう?って思い、苦しいなあって感じた事もある。
意味なんて、無いのかも知れない。
ただ、私には物語が必要だって思っていて、それは同時に、世界中の人々にも必要なんだって思っていて、その重要性とか意味とか目的とかそんなのは分からないけど、とても大好きなんだ、っていう、それだけが確かな気持ちとして、ずっとずっとある。
それだけは、私の中心を通っている一本の信念として持ち続けて行こうと思う。
日々の、様々な制約の中で、純粋に生きようとすると、何度も壁にぶつかる。何度も、絶望に突き落とされる。
だけど、そういう制約があるからこそ、自由に生きる喜びを感じる事が出来るのじゃないかなあと思う。その間には、流されそうになったり、自分が歪みそう
になったり、迷ったり、色々あるけれど、ひとつづつそれらを越えて、自由に力強くにっこり笑う事が、生きる醍醐味じゃないだろうかって思う。
リリーさんのオカンのように、母親が子供に与える無償の愛。それは、生まれてきた人、誰しも受けて来た物だろうって思う。愛が無かったら、今こうして生きていない。誰かの無償の愛があったから、こうして生きているのだ。
それを、私たちは、大人になってからも忘れずに、心の奥に感じ続けていたいですね。
人は、お金より愛だ。愛が無いと、生きて行けない。人は、死ぬのを怖れるけれど、普段は、死をとても遠い事のように感じている。愛が無いと死んだも同然なのに、本気でないがしろにしている人がなんて多い世の中だろうと思う。
そういう病気は、いとも簡単に蔓延して、いつの間にか病気だって言う事に気がつかず、それがスタンダーとになていたりする。不思議だ。それなのに、感動的なお涙ちょうだいな物語を欲しがる。不思議だ。
物語は、涙を流させるとか、涙を流したいとか、そういった卑しい目的で対する物じゃない。何かが狂っている世の中だ。北野武さんが、「ここんとこ病気み
たいに、感動します、泣けますって、そういうバカみたいな映画ばっかり。そういう時代になっちゃった」って言っていたけど、まさにそうだなって思った。
涙って言うのは、結果として付随して来ちゃうもので、それが目的じゃない筈なのに、泣く事が目的になっている時点で、興醒めだなって思う。作品はどうあれ、PRの仕方に問題があるって言うのもあるけれど。
愛が無いと、心が荒みます。
間違った解釈が、連鎖していく。その一体感は、それはそれは気持ちの悪い物だって思う。
本当は純粋で、無垢な物が気持ち悪いと言われ(例えば、マザコンっていう言葉とか)、本当はとても気持ち悪いのにみんなして全く気がつかない気持ちの悪い善意とか、スタンダート。
そういったものを嗅ぎ分けられる人が減少しているのは、死に対峙して生きていないからだと思うし、愛や愛に置き換えられる何かが不足し過ぎているからだろうって思う。
エコとか、ロハスとか、スピリチュアルとか、例えばそういったいいものが歪められた意識で捉えられるって言うのも、一度それを自分の中で疑ってみることをしないからだろうって思う。
ダライ・ラマ法王は、仏教哲学も、鵜呑みにするのじゃなくて、まずは疑う事から始まるとおっしゃっているくらいだ。でも、それはとても正しいと思う。そうやって、ひとつづつ理解して行く事がその人の財産になるのだと思います。
ただ、流行に載って、全てをノリで取り繕っているのでは、時間が勿体ないって思います。
私たちが、何故生きているかなんて、その真の目的は誰も明確には答えられない。
だけど、感動するために生まれてきたって言うのは、色々な要素を集約していて、一番そうだろうなって思えます。
だからこそ、私は、物語を必要としているって思うのかもしれない。
そこに、分厚い壁とか苦しみがあったとしても、物語には人を色づかせる力があるって言う事を、身を以て知っているから。
「物語」は、「芸術」とか「音楽」などと同じように、「愛」と置き換えても、感覚的には何のズレも、ない。
私だけでなくみんなが、死ぬことも、生きることと同じくらい近くに感じて、今を大切に生きて行けますように。
孤独感に酔うのではなく、誰しも持つ本来の孤独に目をそらさずに生きていけますように。
愛を込めて。
Ryoco
今日の空:
いいお天気でしたね〜
Mieが、お散歩にいこうよ〜って言うから、凝り固まって辛くなっていた身体を休めようかと思っていたけど、やっぱりこのお天気の良さに身体がうずいてしまったので、一時間半くらいお喋りとお散歩を楽しんできました。
気持ちのいい空と風。5月だというのを忘れそうなくらいだった
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