考え続けるということは、物凄く贅沢なことだ。
人は、人生の中で、あーでもないこーでもないと悩み、迷いながらやきもきしている時間のほうが多いのかもしれないとも思う。本当は、そんなのは20代くらいまでには卒業したいものだけど、色々な局面で悩み迷いながら、進んでいけばいいと思う。
逆に、迷ったりしないという人は、どことなく信用が出来ない。問題にぶつかって悩むからこそ、自分の中から水が沸いてくるように、じわりと深い考えが生まれるものだと思う。大して迷うことなく、そんなに悩むこともなく、ただなんとなく過ごしている人は、思っているより案外と多いのかもしれないが、それは本 当にもったいないなあと思う。
でも、その人生の中にも必ず、きらきらしているものがあって、のほほんとしている人にも、しかるべきタイミングでしかるべき誰かがきっかけをくれるのかもしれない。苦しみも、歓びも全て人の上に平等に在るはずだから。
とにかく、人は生きて死ぬまでの間に、学ぶべき瞬間が必ずあるということだ。その瞬間が見えたとき、逃げることなく、しっかり掴んで成長して生きたいものですね。
セレンディピティ(serendipity)という言葉は、ここ数年よく耳にしているかもしれませんが、今年は、その言葉のような出会いが多いなあと、ふと思った。
先日、久しぶりにちょっと立ち話をしたMieと、こんな会話をした。
「どう?最近は?」
「どうって?」
「彼氏できた?出会いは?」
「うーん・・・」
というわけで、残念ながら、この会話にあるようなタイプのセレンディピティはまだないようですが・・・
このところ、活字中毒か!というくらい目が開いていれば活字を読んでいます。
夢中になっていると、途中で「は!」っとする。そして、そんな時は、活字を離れて、ひとり考えることで、頭の中身を整理します。これが、結構いい休憩になる・・・という感じな事を繰り返している気がする。
外から見たら、さぞ地味なのだろうけど、本人的にはかなり派手 に動き回っている感じがしています。
それに伴って、身体的も動かしたくなって、朝に少しだけヨガをしたりもしているんだけど、本当はきれいな海で泳ぎたい気分!
そんなことたちは、なかなか見えそうで見えない創作へと向けられていると同時に、全体のことを考え続けていくという小さいころからの信念のようなものに繋がっているのだろうと思っていて、一生やめないのだろうなあと思う。仏教で言えば大乗仏教について、学び実践していくことと近い気がするけれど 、ようするに、日々の小さい問題を受け入れながら、自己満足ではなく、宇宙なのかそれ以上の何かなのか、とにかく全体を抱きしめ、大きな愛(のようなもの)で満たして生きていなかねばと強く思っている。
それを実践して生きている(生きた)偉人は沢山いるでしょう。だけど、私は、それは何も偉人だから出来た特別なことではなく、誰でも、そのように生きていくべきだと思っている。偉大な人が、この世に出ている本の数くらいしかいないとしたら、この世はなんて絶望的なんでしょう、と思う。実際それに近い世の中なのかもしれないけど、偉大な人には、心ひと つで近づいていけると思っている。きらきらと光るものは、空に輝く星と同じように、全ての人の近くにあるはずだ。
それに気がつくか気がつかないか、また、気がついたらそれにぶつかっていくかいかないかで、生活の彩りは違ってくるのだろうと思う。どうか、そのことに、世界中のみんなが気がついて、歓喜して生きていけますように。
私の中で、それを瑞々しく感じることが出来るようになったのは、岡本太郎さんの残したものとの出会いが大きいと思う。岡本太郎がここにいることを忘れないで生きることは、太陽が身体の中心でピカピカ輝いているみたいな感じがする。
岡本太郎の生き方には、全ての人に大切なものが詰まっている。それは、人間からはみ出して、爆発して宇宙に届くくらい溢れている様子が、私には見える気がするのです。
さて、そんな中、ここ最近私が出会ったものについてちょっと触れてみようと思います。
それは、
常々私の中でふわふわと漂っている子供の気配と、
常々考えている「人は皆、違っていていいということ」や、
なぜか常々頭から離れない何かしら困難な状況にある子供たちのこと
に関すること。(特に友達や兄弟に子供が生まれるようになってから頻繁に考えるようになってきた)
小児がんで苦しんでいる子供や、知的障害やダウン症などを抱えて生きる人、孤児となってしまった子供たちなどなど、あらゆる困難にある子供について、ふと集中的に考えさせられることがしばしばある。
そして、そういうのが、ここ数日で、わ〜っとあった。
先日は、実の親が分からない祖母の人生について考えていたときに、たまたま孤児について書いてある文章に出会って、孤児で生まれることについて考えていたら、これまた、たまたま読んだ別の文章の中に、『赤毛のアン』について書いてあって、「そういえばアンは孤児だったか」と思い出して読んでみたくなった。
本屋さんに行くと、同じ作家のところに並んでいた『かわいいエミリー』という本に出会った。読んでみると、これは出会いだなあと思えるような、共感出来る素晴らしい物語が冒頭から溢れ出していた。
その夜、たまたまつけたTVの特集(NHK「クローズアップ現代」)で、知的障害者についての問題をやっていた。そこに出ていた出所する事になった知的障害を持つ女性は、生まれたときは孤児ではなかったかもしれないけれど、今となっては高齢で、身寄りがない。おまけに、国の保護もなく、何より色々な助けとなるよい情報がその人まで届いてい ないという大問題があった。そんなわけで、住む家もなく、食べるものもなく、結局犯罪を犯してしまう。そして、刑期を終えても根本的な解決に繋がるわけがなく、悪循環が続いてしまうのが現状で、そういう人が、非常に多いのだという問題を取り上げていた。
アメリカに、PA(プロテクション・アドボカシー)という団体があるそうで、日本でも徐々に活動が始まっているようですが、まだあまり知られていないのが現状のようです。ホームページをみてみると、まだまだネットワークは全国的に広がっていないような感じです。
私たちは、もっと色々な状況にある人々について知らなければいけないなあと思う。
世の中の多くの仕組みや色々な事は、需要のあるものに重きが置かれているけれど、知的障害者のようなあらゆる障害者というのは、決して少なくはない筈です。日本は、それらに、目を向ける機会があまりにも少なすぎるのだと思います。
だから、多くは、そういった障害に対して、どちらかと言うとマイナスイメージを持ちがちなのではないでしょうか。本当は、何も悲しい事でも、恥ずかしい事でもなんでもない筈なのに。
自分の事ばかり考えて、気持ちのいい席ばかり選んでどっかり座って、自分の事を棚に上げて人の事ばかり批判しているような歪んだ汚い心のほうが、よっぽど悲しむべき困難の多い障害だという事に、気がついていない人の方が多い。
すべての人たちが、「私がかわいい」という思いを捨てれば、状況は大分違っていたのかもしれません。
健常者には想像もつかない身体的、経済的などの困難な状態について、知る機会が自然にあったなら、普通に手を差し伸べる事が出来る場面が増えるだろと思う。
少しはよくなってきているとは言え、今の絶望的な現状のなか生きる障害者の方々、それを支えようとして生きる人を見ていると、本当に深く感動するとともに、その間に見えた彼らの小さな喜びに、何か大きく温かいものを与えられたような気がした。
そして、健常者として生まれてくるだけでも、どれだけそういう事と遠くなってしまうかということが分かった。彼らが抱えた悲しい思いや、そのなかにあるささやかな喜びについて、普段の生活で接する事がなければ、私たちはなかなか想像に及ばないだろう。
そんな殆ど知られておらず、目を向けられる機会が少ないのが今の現状だけど、こういった番組を通して、彼らや、彼らを影で支えている人たちの想いが、どんどん伝わって、障害者、健常者という言葉の中にある、いらないを壊して行けたらいいなと、強く願っています。
私は、全ての生きとし生けるものは、障害者だと思っているけれど、先天的に、目に見える障害を背負って生きる人たちは、生まれた瞬間から、そのことと対峙して生きている。
その事実そのものが、大きくて大切な何かを、知らぬ間に私たちに与え続けてくれているのだと、はっきりと感じ、それについて見落としている事がまだ沢山あるのではと、深く考えさせられました。
その事について、衝撃を感じつつ、深く考えながら、眠りについた翌日、なぜか真っすぐ家路につかないで、ふらふらと遠回りして有機野菜を買いに行き、さらに足を伸ばして大好きな古本屋さんに寄ってみた。ある小説があるかどうか気になっていたからだ。
そしたら、その中で思わぬ出会いが待っていた。
私の目に、凄く素敵な色使いの絵が飛び込んできた。
小さな本屋さんで、Atelier Aの展覧会が開かれていたのですが、私は近所にこんな試みをしている人たちがいることを全く知りませんでした。
作品は、展示されているものの他に、ひとりひとりのファイルされている作品も置いてあった。
見ていたら、何か熱いものがじわっと私のほうに流れ込んでくるのを感じて、思いがけず長い間見入ってしまった。それらの殆どは、ダウン症と言われている人たちの作品だったのだけれど、どれもとてものびのびとして 、自由に違っていて、素晴らしかった。
とても暖かい気持ちになって、感動しながら帰宅すると、気持ちとは裏腹に、バイオリズムのせいもあって身体がぐったりしてしまって、横になりながらおもむろにTVをつけてぼ〜っとしていたら、偶然にもまた、ダウン症についてのドキュメンタリーが始まった。
NHK教育テレビ『福祉ネットワーク』という番組で、『だから、あなたも生きぬいて』の著者であり弁護士である、大平光代さんのお話が中心となって構成されていたのですが、その中に、彼女が勇気付けられたという本の作者との対話があった。
その作者岩元さんご夫婦の、娘でありでダウン症の綾さんは、絵ではなくて文章に魅せられている人だった。
岩元さん夫婦の、子育てのお話は、本にもなっているそうだけれど、番組の対話でも、丁寧に正直に思った事を語られていて、壁にぶつかりながら、それでも負けずにまっすぐに、愛をもって生きてこれらたのだなあというのが親子3人の全部にあらわれていて、お話を聞いていたら、心に清らかな水が流れて身体を包み込んで行くような気持ちになった。
大平さんご自身は、現在子育て中ですが、その迷いながらも真っすぐに我が子を見つめている眼差しは、とてもきらきらしていて、世界にあるとても美しいものとしっかり結びついているのが、手に取るように感じられて、私まで大切な何かを分けてもらったような気がして、温かい気持ちになった。
私は、そういった人たちの力になりたいと思った事もあったけど、ここ数日、上のような人たちの息づかいに出会って、つくづく思ったのは、私は普段接していなくても、彼らに沢山のものを与えてもらっていて、無意識のうちに大きく助けてもらっているのだなあという事だった。
人間は、助け合い思いやって生きて行くものだと思うから、私も与えてもらっているだけではなくて、何か出来る事があればやって行きたいと思う。
豊かな緑と、美しい水は、私たちを静かに取り巻いていて、包んでくれている。
最近、それをとてもリアルに感じている。
また、きらきらしたものを発見したりあ!っていう気付きがあった時程、それを瑞々しく感じる事が出来る。
そして、それらの美しさに心から気がつくのは、自らの障害から目をそらさず、向き合い、受け入れる事が出来た時なのじゃないかなあと思います。
別の言葉で言えば、自分をありのままを見つめ、受け入れる事が出来たとき、周りの世界にある美しいものに出会えるのではないかなあと、そんな風に最近は思っています。
私は、色々と考え前へ進んでいるけれど、まだまだ未熟です。
日々、迷い、闘い、喜び、精進して行く中、
世界中の人たちの日々の笑顔を願って止みません。
love,
Ryoco
追記:
大平光代さんの放送は、再放送もあるので、見逃した人は是非見てみてください。
NHK教育 福祉ネットワーク
再放送:9/12(水) pm1:20〜
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