太陽がさんさんと照り、まるでドライヤーの熱風が吹いているんじゃないかと思うような東京の昼間、
日陰とは言え、それはそれは暑い外のベンチに集まってくる人たちは
一体、どんな人たちなのだろう。
でも、案外、一人になれるこの場所が好きだったりする。
東京のど真ん中に住んでいると、
人が周りにいない瞬間なんて殆どないから。
世の中には、不思議な人とのつき合い方をする人がいるもので
どちらかと言うと嫌な人とディナーを食べに行っては
そこにある本人にとってもどうでもいいのに
ネタになるというだけのメリットを自慢して
その嫌な人はやっぱり嫌だったという話を
わざわざしてみせる。
嫌いな女優さんの話題を引っ張り出してみれば
ぼろくそに言う。
大概、私の大好きな人たちばかりをぼろくそに言う。
あきらかに、全てがおかしいことになっている。
どんな難解な論文よりも理解出来ない現象だ。
人はもっと、他人のキラキラした部分を
積極的に見つめるべきだろう。
悪口は、どんなにきれいな女性だって
醜く変容させる
そんな会話にであった時、
閉口するでもなく、
批判するでもなく、
本気で驚いてみせる。
怒りが意味をなさず悪循環をしそうな場合、
素直に、同意出来ないという態度を取るのが
いいのかもしれない。
若くてかわいい女性たちが
自らの汚い言葉で汚染されて行くことを
私は心から残念に思う
でも、決して同調せず、
一本太い線が通した人が近くにいたら
案外、空気が変わったりするもので
私は、何度かそのような経験をした事がある。
前にも、上のような女の子がいたのだけど、
私は一切同意せず、自分の正しいと思う意見を持ち続けていたら、
彼女は、そのうち、自分を棚に上げるような
言葉を発しなくなって行った。
そうしたら、その子はとても
きれいな人に見えてきた。
要するに、この人には、そういう悪口を言っても、
話が膨らまないし、話がいがないと思わせるのが一番なのだと思う。(笑)
だって、本当につまらないものだからね。
私は、時としてやさしすぎるのが欠点で、
悪い部分も、優しく許してしまうところがある。
だけど、それではいけないなあと反省したのだ。
自分の中から沸き起こる気持ちを
間違った優しさで曲げてしまうのでなく、
その沸き起こった気持ちを観察して
卑屈でもなく、怒りでもなく、批判でもない
ただ、感じたことを、相手に真っすぐちゃんと
伝えると言う手段を身につけたい。
それは、言葉であるかもしれないし、
態度でもあるかもしれない。
私は、やはりそう言ったひどい状況を見ると
情熱のあまり、怒りが込み上げてしまう。
だから、そういう人に出会ったという事は、
今まで、避けてきたその事についてよく考えて、
よりよい感情を出して行けるようにしなさいと言う
掲示であるような気がする。
人生、そういう訓練の繰り返しで、
そう言ったことをないがしろにしてはいけないのだと思う。
とは言え、無理にしむけるのではなく
その後ちょっと様子を見ていると、
そこから学ぶ人と学べない人で
きらめきが変わってくる
学べない人は、おのずと離れて行くものだし、
学ぶ人は、後にとても大切な人になったりするものだ
そして、ギラギラした太陽の中、
それでも光合成を楽しんでいるかのように見える
植物たちと風に吹かれて
言葉を待つ
そうすると、ふと言葉が溢れ出す
今は、そんな時間がとても大切だ
家に帰ると、
グングンのびるクワズイモちゃんと、
その他の植物たち(ベランダも含め)に
今日も暑かったでしょうと、
声をかける
ベランダの鉢にはたっぷりと水を
与える
人は、あたりまえにある自然の営みを
心の片隅で感じていないと
どんどん淀んで行くのだと思う
ありのままを感じ、見つめることは
案外難しいのかもしれない
でも、本当の意味で自由な心で
感じようとするならば、
人と比べたり、他力本願のみになったり
他人に多くを求めたり
することがどんなにか
空しいことだと気づくでしょう
今ここにある
当たり前と思いこんでいる
概念を疑ってみるのは
人生にとってとても大切だと思う
心は、訓練すれば
どんどん新しい発見があり、
深い深い宇宙への旅へ導いてくれるでしょう
暗い闇に包まれた道なき道を
光を見つめ
モウレツに突き進もう
愛を込めて
Ryoco
おまけ:こちらは代々木上原のパンケーキ!
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