旅行に行く前に、岡本太郎に会いに行こう。
と思っていて、まだ蝉がみんみん鳴いている生田緑地を抜け、
岡本太郎美術館へ行ってきた。
今やっている常設展もとても素晴らしかった。
印刷では絶対に表現出来ない色がそこにあって、
その色に私は吸い込まれそうになりながら絵の前に立ち尽くす。
『樹人』という題名の絵のピンクがとても印象的だった。
『哄笑』の前では、涙が出そうだった。
絵から発せられる、線と色のパワーが魂の奥までびしびしと伝わってきた。
前にも観たけど、岡本太郎の映像をじっくりと観た。
やはり岡本太郎は、私の中に生きているなあと再確認。
付け加えるなら、
みんなの中にも、生きている。
それが、岡本太郎。
企画展も良かったけど、ゆっくり観る時間がなかった。
アマゾンの映像が素晴らしくって、ゆっくり観たかったなあ。
あの部屋にいるだけで、アマゾンの風を感じられそうだった。
そんなわけで、あっという間に、閉館時間になってしまった。
閉館時間ギリギリに、『対談集 岡本太郎 発言!』を購入。
そう言えば、あまり対談集を読んでいなかったので、とても面白い。
変わっている所では、ムツゴロウさんとの対話や、ユーミンとの対話が面白かった。
(ムツゴロウさんはやっぱり超越してる素晴らしさで、ついついにやりと笑ってしまった)
帰宅途中、
母から電話が。
花屋さんにいたのに、話の内容は濃くなるばかりで終わらなくなる。
そのまま、電池が切れるまで、寄ろうと思っていたスーパーの近くで長話。
腕と耳の骨が痛くなった。(笑)
私たち家族に共通してある性格の
長所でもあり欠点でもある部分について話し合う。
とても深い話だった。
それぞれがそれぞれの日常の中で出会う個々のダイナミズムの中で、
普遍を感じた。
いい気持ちになる出会い、悪い気持ちになる出会い、
どんな状況下でも、人と出会って行くからこそ、
成長できる。
この宇宙に比べたら、歴史も浅く、小さな人間である、私たち。
本当に、人の悪口をとやかく言ったり、決めつけたりしている場合じゃない。
そんな醜い人間であるのは、哀しすぎると思うのです。
つまらない。
もっともっと、耳をすまし、耳を傾け、
その中にある、
本当に美しいものを目撃する方が、魂は輝く。
おもしろい。
それに、
人の事をあれこれ言っている時間は本当はない筈だ。
もっと個人の中にある深い闇をも見つめ、
全体を見つめた時に、
この世界には、
もっともっと、緊急に考えなければいけない事が沢山ある。
今の世の中、
足りない事のひとつに、
“聞く”ということがあるように思う。
素通りさせて聞くのではなく、しっかりと対峙して人の話を聞く事。
それは、おもいやりや愛に繋がるのではないでしょうか。
多くの犯罪は、この聞いてもらう機会がなかったために起きたのじゃないかなあと思うのです。
聞ける環境
話せる環境
真剣にぶつかりあえる環境
それらを今の日常に、
意識的に作って行くだけで
ぐっと状況は良くなって行くのじゃないだろうか
吉本隆明さんが、『真贋』のなかで、書くことで、解放され、
読者に同じ開放感を与えられたらいいなと思って作品を書く人というのは、
子どものときあまり幸福でなかった人が多いのではないでしょうか。
というようなことを書いてらした。
本当に幼い頃の、無意識な部分に受けた影響。
そんなものが私にもあったのだろうかと気になっていた。
私が何故こんなにも書きたいと思うのかが、ずっと気になっていた。
母は、私は本当にそう言う意味では、悩みはなかったと言っていた。
幸せに、無我夢中で子育てをしていたと言っていた。
ただ、母乳が上手く飲ませられなかった事が唯一の哀しみだったと。
私は、姪のはっちゃんを見ていて、
あかちゃんには、繊細な感受性があることが見えたような気がしている。
そして、その度合いは個々で違う思った。
私は、もしかしたらそういう気持ちの変化に敏感な赤ん坊だったのかもしれない。
でも、私が色々な事を考えながら成長できたのは、
様々な世間とのズレや距離を感じ、葛藤したとき、
いつも母が、本気で一緒に議論を繰り広げてくれたからだろうと、
今までそれが当たり前のように在ったから、
うっかり見過ごしていたとても大きな事だったなあと気がつい。
そのやり取りの中で、私は多くを学んできたのだなあと、
改めて実感した。
私のは母は、
ちょっと眺めただけでは感じる事の出来ない
大きなパワーを持っている。
本人すら気がついていない。
普通の人のような欲が、若い頃の私にはイライラするくらいなく、
惜しみなく、与え続けている人生のように思う。
田舎の、工場でよなよな働きつづける母。
そこで次々出会う人たちは、見事に根強い問題を抱えている人が多く、
私なら逃げ出したくなるのにと、何度も不思議に思った。
母は、工場に勤めていたのではなくて、
もう本当の意味でドロドロの俗世に入って、
その場所で与え続けていたのだなあという事に最近気がついた。
そして、母自身も、かけがえのない修行をさせてもらっていた。
それは、本当に凄い事だと思うのだ。
絶対に、私ならそこで働いたならば、不満ばかり漏らし、
数日しか持たないだろうに、
母は、仕事が嫌だとか思った事はない筈だ。
主婦もやりながらだから、寝る暇もあまりないのに、
何故続いてきたのかは、本当に凄いとしか言いようがない。
つえ〜〜!と、本気で思った。
私の経験した様々な困難や喜びの経験と、
様々な分野の本や、言葉、芸術に寄って培ってきたものを
総動員しても、母の大きさにはまだまだ及ばない部分が沢山ある。
でも、議論を交わせる人がいると言うのは、本当に幸せな事だと感謝している。
本当は、こういう議論は、
様々な人とするべきだと思うなあと思う。
くだらない事だっていい。
日々の、ちょっとした疑問や葛藤を感じて考え、
それを聞いてもらったり
聞くこと
そして、思っているものをぶつけあうこと
そう言うこと。
学生の頃はそんなのよくあった事だろう。
疑問がいっぱい生まれて、爆発させるのが自然だったから。
大人になる事は、
そういうことがしづらくなる事であるのは哀しい。
大人こそ、
「こんな事今更言ったら馬鹿にされるかな」
なんて、変な計算などしないで、
率直な意見を交換させて行くべきなのだ。
本当に、それが凄く足りない世の中だと思う。
文明の発展ばかりに夢中になっている場合ではない。
本当にそう思う。
コンピューターや便利な機械の支配下になってから、
それに甘んじてきている世界は、何もかも退化させて行っている。
新しい文明に、人間がボロボロになってしまう前に
危機に気がついて行かなければ。
便利なものが中心になって光を浴びているけど、
そもそもそんなところに疑問を持って、
対峙して行かなければ、人間は滅びる。
疑問を持つこと
考えること
それを続けていこう
無常だから、
いつかは、全てが滅びるのは避けられないけれど、
その滅びる時に
淀んだ暗黒の星にならないよう
太陽さえも凌駕する星になれるよう
そんな遠い未来には、
私たちはいないからと、
無責任に生きて行く事は、
今この瞬間にすら、生きていない事だ。
追記:
ブログの題名を、以前のような形に戻しました。
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